最近と今
食べたいものが思いつかない時はうつ傾向だと聞いたことがある。
しかし私自身も食べたいものが思いつかなかったりするタイプで、毎回似たようなものを作ってはもそもそ不自由なく食べているので、ふーんそんなものかねぇ〜くらいに思ってあんまり実感はしないで過ごしている。
あんまり実感しないで過ごしているのだけれど、実家で親も食べるご飯を作ったりしていた時は、親に食べたいものを聞いて、その時に「とくにないなぁ〜」なんて言われたりすると、「テレビとか雑誌とか見ればおいしいものはそこらじゅうにあるのだからもっといろいろ目に入れて刺激を受けて『食べたい!』って気持ちを出さなくちゃだめだよ!」というような、もっともらしいことを言ってみていた。
親はピンときているのかいないのか、だいたい好物の焼きそばか、「野菜炒めでいいよ」などとリクエストしていた。
私は焼きそばを作ったり野菜炒めを作ったり私自身の食べたいものを作って親にうーん…と言われたりしていた。
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そんな私が今、思いつかないものは聞きたい曲だ。
正直、これは相当調子が悪いんだろうなと自覚する。
もともとあまり気分気分に合わせたグッドミュージックを思いついて聞く方ではなく、好きな曲やアルバムをずーっと聞いて、誰かの新しいアルバムが出たら今度はそれをずーっと聞いて、ふと「最近この人聞いてないなー」って思ったらその人を飽きるまでずーっと聞いて、という聞き方をしているのだけれど、
最近は、どうにも一つの曲やアルバムを聞き続けられない。途中ですぐ飽きてしまう。
Spotifyでお気に入りの曲やアーティストをざーっとスクロールしても目が止まらない。やっと一人当たり障りない人を選んでも、やはりすぐしっくりこないように感じてしまう。
困ってしまってYouTubeを開くのだけれど、クイズノックは見飽きてしまったし、将棋は盤面を凝視してないと全く意味がないし、ゆっくり解説も気分じゃない時が多いし、本当にどうにも腰が据わらない。
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Twitterも音楽もYouTubeもなんだかふわふわふわふわしていて、
ほぼ間違いなくちゃんと聞けるポッドキャストは週一更新のもの二つしかフォローしていないし、ニチテンも週一回だし、ディスコードは最近ゲーム中にしか人と話さなくなっていて、それでも静寂には慣れていなくてスマホかパソコンにしがみついていて、日々が無意に過ぎて行って、目だけが悪くなっていく。
という毎日を送っている自覚がある。
聞きたい曲が思いつかない時は、うつ傾向にあると思う。
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二週間ほど前、人からもらった本を読んだ。
主人公が、祖父の純なる恋物語を聞いて、二人の人生を賭けた愛と、祖父の一生をかけた愛の表現を読者とともに追体験するというような話だったように思う。
それ以降、みかんの缶詰を見たら「あの本に出てきた!」と思ったり、
キスをしている二人を見たら「この人たちもあの本の二人ほど通じ合って幸せを感じているのだろうか」と考えたり、
『僕』と『君』しか出てこない切ない曲を聞いたら「あの本の二人とちょっと重なるな」と考えたり、
そんなような二週間を過ごしている。
久しぶりに小説を読んだからと言うのもあるかもしれないし、とてもとても純粋な、羨ましいほどに二人だけの世界で幸せが完結していた二人の話だったからかもしれないけれど、とにかくやたらと頭にふっと湧くことが多い話だった。
繰り返し読むにはあまりに甘酸っぱかったりほろ苦かったり苦かったり苦しかったりするので、次に読み返すのはいつになるかわからないけれど、いい話だったと思う。
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インプット大全という本を読み始めた。今30pくらい読んだと思う。作者はインプット大全を出す前にアウトプット大全という本を出していて、インプット大全の中でもしきりにアウトプットの重要性を説いている。
今読んでいるところでは、『「後でアウトプットするぞ」というつもりでインプットしなさい』と言っている。
美術館に行ったあと、「すごかった!」と感想を言った場合、2時間のインプットで3秒のアウトプットということになる。
対して、後で人と感想を言い合う予定があったり、ブログに書こうと言うつもりで見ると、よりつぶさに見て、細かく印象に残るのだとか。
感じたことを5分間しゃべれたら300秒だよ!効率が100倍だよ!だそうな。
人に見せるつもりで練習する、どこかに残すつもりで練習する、そういうモチベーションも有効なインプットのひとつなのかもしれない。
私が何かを練習する時は、自分が満足するためのものだからな。
自分が許せる許せないの基準でストイックに練習するわけでなく、頑張った、形にできたで満足できてしまうから、とことんインプットしてこない人生なのかもしれない。
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アウトプットするつもりで過ごすといえば、身近な人にも、一日の終わりに一番印象に残った出来事やキーワードを一言挙げる“MVP”という習慣を持ってる人がいる。
楽しい一日を振り返るのにとても気軽で便利で、一言で色々思い出せる不思議さもあるし、私もやってみようと意識してみたことがあるのだけれど、一日の終わりになって思い出そうとしてみるとなかなかどうして難しかった覚えがある。
きっとあれもしっかり習慣として自分の中に持って「これは今日のMVP候補かもしれないな」と考えながら過ごすことで、一日の出来事を(MVPにならなかったものも含めて)印象に残していくいい方法なのかもしれない。
私は面白いことがあったら忘れる前にツイートしてしまうのだけれど、(そういう方面で楽しかったことを残そうとするのだけれど、)ツイートした後には忘れてしまうことがほとんどだ。残しているようで残していない。インプット大全の一番最初の方で「保存されない素通り情報はインプットとは言いません」って言ってた。
日々の有意義性と自己肯定感のために、もう少し情報の出入りに自覚的になろうかな、という感じの、今。
食べたいものは特にない。
聞いている音楽はポップしなないでの「初夏それから』
手間なだけ
人には二種類ある。
自分とは違う何かを感じたときに、それ自体を別にどうこう言うつもりはないしいいとも悪いとも思わないのだけれどもなんだか気まずさというかざわざわしている自分を自覚して結果的にいい気分とは言えなくなってしまう癖のある人と、そうでない人だ。
私はそういう癖のある人で。
自分に利害がないのならなんにも心を動かさずにただそこにあってもらえばいいじゃんとも思うのだけれど、結果的にとはいえ気分に関わってしまうのでどうにもそう割り切れず、しかしもちろん縁を切ったり見ないようにしたりするほど大きな問題でもなく、ただもやもやするだけして、なんにも言わないのである。
なにしろただ単に「異なる」というだけであって、それ自体には善も悪もないのだから。
しかし、それはそれとして何にも言わずに溜め込み続けるということも苦手であるために、こうして形にしてみる次第だ。
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私がこれを書き始めているきっかけは、ハンドルネームやアイコンを頻繁に変える、それも全く脈絡のない、個人を認識するのがおよそ不可能なものに変えていくアカウントを眺めていたことだ。
私はアイコンも名前も一度決めたらあまり変えない方で、TLでアイコンを認識してもらえたり呼んでもらえたりすると嬉しく感じる。
ではハンドルネームやアイコンを変える人はそうではないのだろうか。そんなことないと思うんだけどなぁ…。
人づてに聞いた話だけれど、コンビニなどで顔を覚えられることを避けて、「あの時は」とか「これでしたっけ」とか言われるともうその店に行きたくなくなってしまうという人もいるらしい。
その人はどうしてそう感じるんだったか…聞いた気もするけれど忘れてしまった。
あまりにも共感できない話で、そして自分に関連がなくて、印象に残せなかったのかもしれない。
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関係ない話してたら突然わかった。
人間関係を広げたいと思ってない可能性があるのかもしれない。
自分のことを認識できる人だけが、それぞれ自分を指す言葉で自分を呼んでくれればそれでよくて、外側にいる人に「自分を指す言葉」を獲得させないようにしているのかもしれない。
自分の呼び名に興味がないから自分の呼び名のところに表示しているものはなんでもよくて、しかしなんでもいいからこそそれが定着する前に変えていきたい、
そしてその間ずっと、お互いの間に魂を指す言葉だけがあればいい…?
んー、いや。
ならどうして魂を指す言葉をそこに表示しないんだ…?
魂を指す言葉を大事にするならそれを誇って掲げればいいじゃないか。
それが大事であればあるほど、今ある人間関係の中での“内緒の合言葉”であればあるほど、おおっぴらに出せるものじゃなくなっていくということか。
メールアドレスを頻繁に変える人、ラインのアカウントを頻繁に変える人、Twitterのアカウントを頻繁に変える人、それぞれ重みは違うけれど、精鋭だけを残したいという気持ちの表れなのだろうということはふんわり認識していたところではある。
精鋭を残したい気持ちというのはこんな感じなのかなぁ。
逆に、頻繁に変えてるそのアカウントネームに忠実に呼び方を変え続けたら、その人はどう思うんだろうか。魂を指す言葉で呼ばない人に対してどんな気持ちになるんだろうか。ちょっと気になるな。しないけど。
うん。よし。割と考えがまとまってきた気がする。
ただなぁ、アカウントネームから魂を指す言葉を想起するのに毎回時間と負荷がかかるんだよな。まだまだソウルメイトレベルが低いということなのかしらね。
これからもよろしくお願いね、【魂を指す言葉】。
#ばろらんとやろらんと
しばらく前からすーぎのがやってるバロラントってなに??
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