すーぎののリフィル

ちょっと長めに考えて置いておくところ。

「人」という字は

依存癖のなおし方について、というお題箱を頂きました。

相談のお返事は早めのほうがいいかと思い木曜日ですが更新します。

 

ただ依存体質の私に言えることがどれだけあるのかどうか……笑

 

 

依存、依存かぁ……タバコやアルコールなんかの中毒とはちがう、気持ちの持ちよう的なもののお話と捉えて書いていきます。

個人的な感覚としては「対象をその時の何よりも優先して自分の中に満たしたい気持ち」がとても強くなって、「優先できないと辛い」「優先させてもらえないと寂しい」みたいな気持ちですかねぇ。

 

でもこれって自分で治すの難しいですよね…

依存癖を治すどころか、意識して100%自分の意志で何かの依存から離れたことってもしかしたらないかも知れない。

今まで依存の対象になってたもので今に残っていないものはたくさんありますので、いつの間にか気持ちが離れているということはあったのでしょう。

 

きっかけがなんであれ、それまで自分のなかに大きく占めていたものから離れる(あるいはそれが自分から離れていく)というのは、少なからず悲しく、寂しいものだと思います。自分の気持ちが離れていくのを認識して、自分の”好き”が無くなったのかと、そんなことはないと思いたい気持ちもあることでしょう。

自分ができたことがないのでたぶんなんですが、このときの寂しい気持ちにうまく向き合うことが依存の対象から距離を置くポイントな気がしています。「好きなまま(好きである気持ちに自信を持ったまま)距離を置く」ということができればいいんでしょう、きっと。できれば苦労はしないけど。

 

なにかから距離を置こうとするとき、寂しい気持ちを見つめすぎてしまうと目の前が寂しさでいっぱいになってどうしようもなくなってしまいますので、なにかに目をそらすことが大切だと思います。

私の場合は音楽やゲーム、お酒や睡眠あたりになりますが、人によっては読書やランニング、ギターを弾いたり、誰かと話したり、部屋の掃除をしたりするのが合う人もいるかも知れません。どうせ無心でやるなら自分の身になることで自分に合うものが見つかるといいですね(白目)。

なにかから距離をおいてそれらをしている間にも、きっと寂しいという気持ちが少しだけあったりするでしょう。あるいはしばらくの間寂しい気持ちを忘れていられるかもしれないし、寂しい気持ちがまったく振り払えず膨らむばかりだったりすることもあるかもしれません。そういうことを何度もしていくうちに、気持ちとの付き合い方や対象との距離感といったものが分かってくるのでしょう、きっと。

 

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依存を治す方法として、「色んなものに少しずつ依存する」という言い回しをよく聞きますが、この言い回しは一長一短ある気がします。

個人の実感として、依存が薄れるときって、別の依存先が見つかったときなんですよね(よねじゃねんじゃ)。常になにかしらに依存してる自覚があると、何にも依存してない自分というものを想像できない。どこにも掴まっていない、何にも繋がりがない自分は怖くて想像できない。だから、そういう人にも想像しやすい「依存」というワードを用いて「”どこにも掴まらない”んじゃなくて、”一つにしがみつくのをやめる”だけだ」という意識を伝えるのはいいことだと思います。

反面、「依存から離れるためには新たな依存先が必要だ」という感覚が自分の中に確かな実感としてありすぎると、「他のものに依存する」というワードが重すぎる気もしてしまいます。無闇やたらに旧依存先から目を背けて新依存先を見つめてしまうと、それはそれで新たな依存先との距離感がわからなくなってしまうのではと思うのです。

 

 

たぶん、求められてるスタンスは、これなんでしょうね。

 

 

ここで、生ハムを持ち歩いてないと不安だとか、生ハムがあればどんなことも耐えられるとか、俺の精神の安定剤は生ハムだけだとか、そういう極端なことを言ってるわけではないんですよね、この人は。

自分がいて、自分の中にたしかに生ハムの存在を感じ、それが確かに自分の力になっている。そういう実感に自信を持って、自分の足で立つこと、そういうのを目指したいですね。

 

で、きっと、こういう存在は、きっと自分次第でたくさんたくさん作れて、そうしておけば、自分の気持ちや気分によっていろんなものを頼りにできる。

 

でも依存体質の人って、対象にもよりますが「持ち歩こうとまでは思わないけど生ハムが視界に入れられそうな時は常に視界に入れていたい。見えるかどうか確認しないと不安だ」くらいのことは平気で言えるんじゃないかと思うんですよね。私は言えます。(これはさすがに例えが極端だからアホっぽさが強調されるけれど…でも近い感覚はある気がする。)

 

そういえば私の友達に、常に日常の辛さにうめいていて、旅行や野球観戦などを頼みの綱に日々を生きている人がいますが、雨が降ったり残業が発生したり電車が遅延したりお腹が痛くなったりするたびにストレスで死にそうになっているので、見ていてマジでハラハラします。

楽しみが複数あっても、気持ちがそれ頼みになっている状態ではきっとまだ不十分で、少しずつ、少しずつ、色んなものを頼りにしながら自分の足で立っているくらいが、きっと目標にすべき状態なのでしょう。

 

なにか一つが一時的に失われたり離れたりしても、「まぁ今はなくてもまだ自分にはこっちがあるしな。こっちをしてるうちに戻ってきてくれれば万々歳かな」って、そういう気持ちの残弾があればあるほどよいのでしょう。

 

そうなるまでには(もしかしたらそうなれてからも)、寂しい気持ちを感じることはきっとあるかもしれません。

でも人生って長いです。持ちたいと思ったものを全部持って歩けるわけではないです、たぶん。色んなものに出会って、色んなものを大事に思って、色んなものを取捨選択していくことになります。

その時に、自分はいろんなもの、たくさんのものに繋がっていて、なにか一つを失ってもまだ大丈夫だという感覚を持っていることは、きっと自分の助けになります。なってほしいと思います。

 

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依存してしまいがちな人って、きっと今に自信がなくて、現状を変えたり、長期的な利益のために短期的に現状をマイナスに振ることが苦手な人が多いと思います(違うぞという人がいたらすみません)。

少なからず不安もあることと思います。

いろんな人に話を聞いたり話を聞いてもらったり、自分の信じるものや考えに自信をつけたり、人の意見を取り入れたりしてみるといいかもしれません。

複数の視点に触れることは、自分の考えの拠り所を複数持つことです。

それもきっと今の自信や、自分が繋がっていると思える確たる場所の一つになりえます、たぶん。

 

「人」じゃ足りないんですよだから。一人に寄りかかるんでなくて、もっといろんな人やものと繋がって、「木」くらいたくさん支点を持って、その中心に自分を据えられたらいいですね。

 

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長々と書いてきましたが、最初にも書いたように、私も依存体質です…。

今慌てて考えてだーっとこういう文章を書きましたが、自分でできるかはわからないし、全然トンチンカンなことを言っているかもしれないし、なんならしばらく後にはすっぱり忘れてるかもしれません(またどこかのタイミングで見返してみたいですね。(それが”リフィル”の正しい使い方なので、本来……))。

 

 

できれば多くの人の意見を聞いてみたいところです。

あなたのおすすめの拠り所、あるいは距離感で意識してることとか、個人的には拠り所の優先順位の付け方(たくさんある趣味や逃げ先からどれを選ぶかみたいな話)とか興味あります。

もちろん批判もあればぜひ。必要に応じて追記します。

もしよかったら。

 

コメントに残していただけるとみなさんが見ることができるのでありがたいですが、リプなどでも。もしありましたらぜひ、よろしくお願いします。