手間なだけ
人には二種類ある。
自分とは違う何かを感じたときに、それ自体を別にどうこう言うつもりはないしいいとも悪いとも思わないのだけれどもなんだか気まずさというかざわざわしている自分を自覚して結果的にいい気分とは言えなくなってしまう癖のある人と、そうでない人だ。
私はそういう癖のある人で。
自分に利害がないのならなんにも心を動かさずにただそこにあってもらえばいいじゃんとも思うのだけれど、結果的にとはいえ気分に関わってしまうのでどうにもそう割り切れず、しかしもちろん縁を切ったり見ないようにしたりするほど大きな問題でもなく、ただもやもやするだけして、なんにも言わないのである。
なにしろただ単に「異なる」というだけであって、それ自体には善も悪もないのだから。
しかし、それはそれとして何にも言わずに溜め込み続けるということも苦手であるために、こうして形にしてみる次第だ。
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私がこれを書き始めているきっかけは、ハンドルネームやアイコンを頻繁に変える、それも全く脈絡のない、個人を認識するのがおよそ不可能なものに変えていくアカウントを眺めていたことだ。
私はアイコンも名前も一度決めたらあまり変えない方で、TLでアイコンを認識してもらえたり呼んでもらえたりすると嬉しく感じる。
ではハンドルネームやアイコンを変える人はそうではないのだろうか。そんなことないと思うんだけどなぁ…。
人づてに聞いた話だけれど、コンビニなどで顔を覚えられることを避けて、「あの時は」とか「これでしたっけ」とか言われるともうその店に行きたくなくなってしまうという人もいるらしい。
その人はどうしてそう感じるんだったか…聞いた気もするけれど忘れてしまった。
あまりにも共感できない話で、そして自分に関連がなくて、印象に残せなかったのかもしれない。
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関係ない話してたら突然わかった。
人間関係を広げたいと思ってない可能性があるのかもしれない。
自分のことを認識できる人だけが、それぞれ自分を指す言葉で自分を呼んでくれればそれでよくて、外側にいる人に「自分を指す言葉」を獲得させないようにしているのかもしれない。
自分の呼び名に興味がないから自分の呼び名のところに表示しているものはなんでもよくて、しかしなんでもいいからこそそれが定着する前に変えていきたい、
そしてその間ずっと、お互いの間に魂を指す言葉だけがあればいい…?
んー、いや。
ならどうして魂を指す言葉をそこに表示しないんだ…?
魂を指す言葉を大事にするならそれを誇って掲げればいいじゃないか。
それが大事であればあるほど、今ある人間関係の中での“内緒の合言葉”であればあるほど、おおっぴらに出せるものじゃなくなっていくということか。
メールアドレスを頻繁に変える人、ラインのアカウントを頻繁に変える人、Twitterのアカウントを頻繁に変える人、それぞれ重みは違うけれど、精鋭だけを残したいという気持ちの表れなのだろうということはふんわり認識していたところではある。
精鋭を残したい気持ちというのはこんな感じなのかなぁ。
逆に、頻繁に変えてるそのアカウントネームに忠実に呼び方を変え続けたら、その人はどう思うんだろうか。魂を指す言葉で呼ばない人に対してどんな気持ちになるんだろうか。ちょっと気になるな。しないけど。
うん。よし。割と考えがまとまってきた気がする。
ただなぁ、アカウントネームから魂を指す言葉を想起するのに毎回時間と負荷がかかるんだよな。まだまだソウルメイトレベルが低いということなのかしらね。
これからもよろしくお願いね、【魂を指す言葉】。