だもんじゃないが
死、ねぇ……
お題箱、何人の方が入れてくれてるのかはわからないんですが、自分じゃ書こうと思わないお題ばかりで、お題箱を設置してるかいがあるなぁといったところです。
入れてくれてる人は別に「これは僕俺私がお題に入れないとすーぎのが自分から書くことはないだろうから一石を投じてみるか」と思って入れてくれてるわけではなく、単にすーぎのが書こうと思う題材が狭いだけ、あるいは多くの人の関心ごととすーぎのの関心ごとがずれているということだと思うことにしておりますが、自分と自分以外の人の差異を取り入れるという意味でやはりお題箱は導入してよかったなと思う次第です。
よかったらお気軽に入れてみてくださいね。
https://odaibako.net/u/ssigonigonigon
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一番身近に死を感じるときは、駅のホームかなぁ…。
一番前で待っていて電車がホームに進入してくるとき、意識してしまうと毎回ちょっと怖いです。必ず気になってしまうというわけではないのだけれど、気づいたときは後ろに体重をかけるようにしているし、なんならたまに(主に後ろに人がいるときなどに)半歩後ろに下がります。あと、今後ろから押されたら思い切りジャンプすれば間に合うか、あるいはブレーキをかけたほうがリスクが少ないのかとかを、近づく電車を見ながら考えていたりします。
(最近は意識すること減った気がするな?働いてないから?)
駅の奥の方だとだいぶスピードも落ちてるんですが、手前の方だと普通に通過するのと同じくらいのスピードですれ違ってるように見えるんですよね。"死"ですよね。あの速度の電車は死の概念が走っていると言っていいと思う。
車だと不思議とそこまでは思わないんですが…。前に原付きで事故った時は数メートルは吹っ飛んだと思うのだけれど(たぶん)。その際ほとんどケガがなかったからかな…。
通過する近さでいったら電車と大して変わらないし、出会う数は桁違いに多いし、なにより運転してる人のほとんどが大した訓練も受けてない素人だしで、車の方がよっぽど怖く感じていいはずなんですけど……え、これを機に怖くなってしまったらどうしよう。街を歩けなくなってしまう。
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そうそう、素人の運転といえば、自転車に乗ってるときにやたら大回りで距離をとってすごいアクセルを踏んで抜かしてくる乗用車がよくいるんですけど、あれムカつきますよね。あとなぜか全然抜かしてこないでずっと後ろ走ってる乗用車。どちらも車両感覚が乏しい上に自転車側を全く信用してないために見られるムーブです。フラフラしてるママチャリならまだしも、それなりのスピードで巡航してるロードバイクはそうバランス崩れないようにできてるので"生身で車道を高速移動したがるサイコパス人間"という概念ではなくロードバイクの性能の方をもう少し信用してほしいと思います。
その点トラックは一貫してて好感がもてますね。あの人たちは車両感覚がカミソリだからほとんどの場合変な挙動をせずにさーっと抜いていきます。自転車側がバランス崩したりしなければまず何も起こらないという安心感があります。抜かしてこないときは無理なとき。
電車やバスの運転士もそうだけど、命がかかる仕事として運転をしてる人はすごいですね。きっと常にどこかで命のことを意識してると思うんだけど、どんな気持ちなんだろう…。
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ちなみにロードバイクに乗ってる側から言わせてもらうと追い越してくる車はあんまり怖いと思っていなくて(ただし大型トラックが近くを猛スピードで抜きに来ると風圧が負になって吸い寄せられるのでめちゃ怖い)、むしろ車道と縁石の境目のほうが死ぬほど怖い。文字通り死ぬほど怖い。
ここ↓
どうやらエプロンと言うらしいですが、このエプロンと車道の境目はかなりの割合で段差、あるいは隙間があるので、ロードバイクの細いタイヤで不用意にここに乗ってしまったときはある程度鮮明に事故を想像しますね。
ていうか実際にここで転んで足首を切ってそこから今に至るまで歩き方に若干影響出てますね。後ろから車来てなくてよかったですね。
また、すーぎのは前回 転んで駄目になったヘルメットを買い直していないので現在頭が生身です。乗ってる間は常にふわっと「あーもし今転んで頭からガードレールに突っ込んだら多分死ぬだろうなー」とか頭にある状態で走ってます。平地で時速25kmくらい、道が少し下ってれば35キロくらいは平気で出るので、ロードバイクというものは。走る死です。
まさに前回転んだときというのが山道の下りでして、あのときは20キロくらいはあったのかな…わからんけど…。
あれは今でも思い出せますね。とある山の舗装された道を下っていて、曲がろうとしたんですがスピードが出すぎていて「あ、ブレーキ足らない。曲がり切れない」って思って曲がってる途中でぎゅーっとブレーキを握ったら後輪がぎゅぎゅぎゅと滑り出して、でも不思議とバランスは崩れないままそのまま数秒走ってガードレールにぶつかりました。
その後輪が滑ってる数秒の間に「ブレーキを急に離すとコケるしなによりまだスピードがあああああガードレールがああああ」という感じのことを考えてたような気がします。時速20kmで滑ってる自転車でバランス取りながらですからたぶんその瞬間は相当集中してましたね。数秒後に縁石にタイヤを取られて、走りながらガードレールに倒れ込む感じでガガガガッっと勢いよくいきまして、腕を引っ掛けて踏ん張ってなんとか頭とかは打たずにすんだ感じ。
…はい、お気づきでしょうか。
山道で、カーブの外側に、ガードレール。
そうですね。谷側ですね。
死ぬかと思いましたね。
もし正面からぶつかってたら自転車を置いて体はガードレールを越えてたと思われますが、このときは勢いとレールの向きが近かったので運よくレールに引っ掛けた腕が真っ青になるだけですみました。今思えば脱臼とかしてたら普通に帰れなかったな…。運がよかった。
(蛇足ですが滑りかけたタイヤが急に地面を掴んだときにバランスを崩してしまう転び方をハイサイドといいます。これはこれで死を意識できる転び方なので気になったら検索してみてください。)
すーぎの個人で死を意識した体験はこんなもんかなぁ……
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死、ねぇ……
死ぬとしたら、できれば死と向かい合う時間がないくらい急に死にたいですねぇ…
いや別に死にたいわけじゃないんですけど……
死のことを考えるのは先に生のことを考えた人なんじゃないですかね?すーぎのは生のことを考えるのにもブログというものを使ってやっとなんですよ。
もっとなんかこう、生のことをしっかり考えたりした人が考えるものなのでは…?
ていうとなんか、死のことを考えるのが面倒くさいから急逝したいというサイコパスじみた願望に見えるかもしれないんですけど…っていうか自分自身でそう言ってるように見えて引いてるんですけど流石にそういうわけではない…と思う…んですけど……。
なんていうか、自分が死んだあとの周りを考えるのは、とてもつらいんですよね。
悲しんでほしいとも思うし悲しんでほしくないとも思うし、仲のよい人ごとに個別にどう思うだろうかとかどう思ってほしいだろうかとか考えたり、この出来事この物事の精算がまだだとか、それは生きてるうちに考えないとだめなんだろうか…??
もし向き合うべきタイミングがきたら、あるいは自然と向き合おうかなと思うようなときがきたら、その時考え始めるんではだめなんだろうか?
まぁけどこうは言っても、例えばある日余命2週間だって発覚したり、乗ってた飛行機のエンジンが止まったり、失敗したら死ぬ手術を受けるか受けないかを選ぶようなことになったら、今度はあまりに時間が足りないと思うんだろうなぁ。
そういう中途半端に時間がある(中途半端に時間がない)のは嫌かもなぁ。
うーん。こう考えてみると、自分の言う嫌じゃない死に方って、終活をしてから迎える死か、「は?」としか考える時間がないほど急に来る死ってことだよな。それはそれで何%の人が迎えるかわからんような死なのかもしれない。
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でもだからといって、「中途半端に時間がある死」に備えて普段から死について考えたいとは思わないんだよな……。
日本で一番つねに死について考えてる人ってたぶんお坊さんかお医者さんだと思うんですけど、なんていうか、生活が両極端ですよね。
どちらも「死」、もしくは、死を意識し始めるあたりの人と接することが多いという共通点はありますが。
片やいわゆる勝ち組と言われるくらいの収入があり、つらい仕事をこなしてさらに恋に生活にお金や時間その他様々なリソースを割いて生きていく人々と、さまざまな執着を捨てて掃除や托鉢などをしながら日々爪に火を灯して生きている人々…。
どっちもかなり先入観が入っていると思いますが、なんとなく思うのは、日常的に死について考えるには、現世を詰めに詰めて溢れさせるか、色んなものを捨てて空いた現世に死(あるいは来世)を流れ込ませる必要があるのかなぁ、というようなイメージです。
どちらの立場でもある意味で現世のバランスを崩しているということになるので、「余裕」を念頭に置いておかないと、きっと自分自身が死に引き込まれてしまいます。
これは私のような一般人にも言えることかもしれませんね。仕事だったり精神的なものだったりをきっかけにして生活や日常のバランスが崩れると、そしてそういうときに死を意識すると、やっぱり引き込まれてしまうと思います。
すーぎの個人に関していえば、すーぎのは具体的な想像をする力に欠けているところがあるので助かっていますが、暗いときには気持ちが暗い方暗い方に行ってしまいがちなのでそういうときにあんまり死について考えると大変なことになると思います。
今は比較的元気がありそうですね。
たぶんなかったら生きる目的も価値もないんだからすーぎのは早く死んだ方がいいとか言ってますよ絶対。
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実は今飛行機に乗っていますがやっぱり怖いというか、緊張しますね、飛行機は。
雲の上に出るまで、機体がたまに横にぐぐっと揺れて、羽がガンガン動いているのが見えて、あれがベシってなったら落ちるのかーと思いました。言葉にすると、死について考えるの向いてないなすーぎの。
そういえば友人の一人に事故が恐ろしくて飛行機に乗れないという人がいるなぁ。
彼もしくは彼女はたぶんどちらかといえば現世のバランス悪い方だし、その上物事を具体的に想像する能力に長けているから、すーぎのと比べて日常がとてもとても怖いんだろうなぁ……。元気してるのかなぁ……。
最近連絡とってないけど、このうちに死んでたりしてたら恨むぞ。化けて出てやるからな。とか言って。
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落としどころがまったく見えてきません…困ったな…
普段はだいたい書き進めてくとこれ以上書けないなーってなってだいたい自分はこんな感じなんですねーって言ってなんしかうまいこと言えたくらいのタイミングで切るんですが、今回はどれもまだない…。
どうしたものかな……
いやまあね?死というものとまだまだ向き合ってないなという自覚はありますけどね正直?
だってやだもん。死とか考えるの。この段階でわかるのはすーぎのは死というものに救いであるとか魅力は感じていないということですね。
来世とか死後の世界とか、仮にあったとして今の自分に認識できるものでないし想像できるものでもないし、だとすれば死んだら「認識できる自分の世界」はそこで終わりです。
あとは残された人の問題です。
これは別に放り出しているわけではなくて、自分が死ぬことを想像するということは、自分がいなくなったときに周りのみんながどう思うか、なにが残るのか、自分がいない世界はどんな感じなのかを想像するということです。それはきりがないし、どうしたって悲しいし、その上いくら考えたって正解かどうかもわからないんですよ。だって、それは自分のことではないから。
…変な話だな。自分で言葉にしといてなんだけど。
自分に関係しうる、自分の関心ごとになりうる死は、想像しうる死は、他人の死だけなのだ。
うん。これは今回得た新しい気付きかもしれない。
言い換えると、自分に想像できるのは自分の死そのものではなく、「自分を失った後のあなた」と、「あなたを失った後の自分」ということ。やっぱりなるべくなら想像したくないですね。
それはなんでかなぁと考えると、「この人がいなくなったら私も死ぬ」という相手も、そう言ってくれそうな相手も思い浮かばないからかもしれない。
「これまで〇〇さんや△△さんを失ってきたのに生きている自分」と「この先自分がいなくなっても生き続ける人しかいない世界」。
そんな寂しいこと、なんで真正面から考えなくちゃいけないんだ。
こんな残酷な自分、なんで真正面から考えなくちゃいけないんだ?
あ、やべ、悲しくなってきた。やめよう。
「死」お題箱より。
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伊沢さんと川上さんの対決をまとめました。
https://docs.google.com/document/d/1MLOSfNziSYWi3sgFNzRWHzk9_9hvwS-Lopza7oEVYWc/edit?usp=drivesdk