すーぎののリフィル

ちょっと長めに考えて置いておくところ。

人のためを思えない人。 #人

今回は個人的に重いテーマがきました。

「だれかになにかを教えること」 ということで、つらっと書いていきます。

すーぎのは大学で教育についてちょっとかじってたんですけど、児童生徒に教育を施すということについて今ひとつ自分の中に落とし込めなかったです。「教育のなんたるか」というような辺りはもう何習ったかまったく覚えていないですね。

なにしろ教師を目指したきっかけが、大学受験を見据えて入った塾で先生の教え方に感動して「なんだよ!世の教師全員これやれよ!よし俺もその一人になるわ!」という気持ちで志したというのですからただのバカです。いや動機としてはいいのかもしれんが考える時間が足りなすぎなんだよバカ。そんなことなら適当に興味のある専攻でもとって楽しく4年間学んだあと塾か予備校にでも就職してればいいんだそんなもん。バカ。

ま他にも親が2人とも教師だったり、一番仲の良かった元山くん(仮名)も同じく親が教師で教師志望であったり、ようは教師という仕事に目が行きやすかったんですね。勉強に携わるなら他にも選択肢たくさんあったのにね。

 

すーぎのは勉強方法をきっかけにして教師を目指しましたが、教育の道を歩いていける(その素質、あるいは資格がある)人というのは、「人にものを教えるのが好きな人」でもなければ「子どもが好きな人」でもありません。

「子どもを導いて、子どもに世界を見せて、子どもと一緒に生きる、そういうことに生きがいを感じられる人」です。

もちろん先の二つも重要な素質ではあるのですが、本質的に必要なのはこれだと思います。教育は”育”が肝要なんじゃ、"育"が。

教育者にはこの感覚が必要だったんだなと認識し、それが自分にないと感じたためにすーぎのは教育の道を離れました。だってむりだよ。その感覚って努力とか勉強とかじゃなくて才能だから。なかったらむり。(と当時思った。)

 

「子どもに勉強を教える」というのは「授業」という形である程度画一的にするものなので、ある程度教師主体になりがちです。それはそう。

しかしそれ以外のすべて(授業中の個別の働きかけ、課題のフィードバック、廊下でのちょっとした会話、教師同士の情報交換の内容に至るまで正しくすべて)は子どもの認知や段階、求めている働きかけ方、以前に交わした会話・約束、家族構成や家庭の状況など、「子ども一人ひとりに合わせて個別に施されるべきもの」であって、それを自分のクラス30人、学年で60人、年をまたいで担当が変われば120人で行うのが教師の仕事なのです。

もちろん実際にそれができている人なんてそうそういないし、もしそういう先生が一人でも思い浮かぶとしたらそれはとてつもなく素敵なことです。それに感動して教師を目指すという人も少なからずいることでしょう。

 

教師も人間ですからその理想を完ぺきにこなすことはできないわけですが、教師を志す段階で「それを目指して生涯研鑽すべし」と教わり、やってやるぜと思う人(あるいは知ったことかと思う人)だけが教師になり、すーぎのは、それができないなと思ってリタイアしたわけです。

いや、正確に言えば個別に相手のことを考えて相手に合わせて試行錯誤していくことはできると思うし、できるならしたいとも思うのですが、それを限られた時間の中で30人60人120人に施し続けて生きていくことは自分にはできないなと思いました。

教育実習ではそれを目指してみましたが、余裕のない中で見えてくる顔はなついてくれる子、印象に残る会話をした子、手のかかる子ばかりで、生徒全員に等しく気持ちを向けることができず、そして誰から見ても分かる通りこれは教師として致命的な感覚だったので、結構きつかったです。 

もう一つ、今しがた”相手に合わせて試行錯誤していくことはできる”と言いましたが、すーぎのが伝えられるのは結局「自分がわかりやすいと感じている考え方」であって、相手に伝わらなかった時の試行錯誤に時間がかかりすぎてしまうんですよね。授業の時間の中でフォローアップしきることは100%できない。本来の正しい姿勢は、授業の前にあらかじめ自分で試行錯誤してミート範囲が広い考え方を組み立てておいて、授業中のフォローアップの手間を減らすというものなのですが、それができる気がしませんでした。

 

 

ご縁があって最近は若いフォロワーさんもたくさんいますが、あなた達の目から見てもきっと先生がどれくらい授業の準備をしているかとか、生徒一人ひとりを見てくれているかって、結構分かるものですよね。もし授業や人間関係に関して「この人は頑張ってくれてるな」って思える先生がいたら、たぶんその人は本当に頑張っているし、本当にすごい人だし、きっと素敵な人ですよ。

 

すーぎのはそれにはなれないなと思い、(なれるかなれないかは別にしても)それを目指し続けられる人のみが教師になるべきだと思ったので、「大勢に等しくなにかを教えること」は諦めたという次第です。

 

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重い話はおしまいです。(たぶん)

 

次は「個人に何かを教えること」の話をしましょうね。

生涯研鑽の志を捨てて幾星霜、お勉強から離れたすーぎのはもはや誰かに勉強を教えることはできません……。

ということで最近人になにか教えることがあるとすればはもっぱら自分の好きなものや、自分自身のことですね。

 

日常的にすーぎのが好んでするのは好きなものを人に教える方です。

自分の好きなものを誰かが好きになってくれた時というのはどうしてああも嬉しいんでしょうねえ……?

自分の好きなものの価値が多くの人に見いだされること自体が嬉しいということももちろんあると思いますが、単純に自分と人との共通点が増えるって嬉しいですよね。

(あと自分の趣味が認められる気持ちもある気もしますね少なからず)

 

一度趣味が合った人と他の話題でも趣味が合ってることが判明するのも嬉しいですよねぇ。

やっぱり人間どこかで「自分はひとりじゃないんだ」って思いたいんだと思うんですよね。

誰かが歌や絵や人柄なんかを発信していて、それに惹かれる自分がいて、そこまででは世界に二人しかいないけど、誰かが「私も好きです」って言うたびに自分の周りに人が増えていく、そんな安心感があるんですよね、きっと。

自分も、自分の好きなものも、それを好きだと言ってくれたその人も、捨てたもんじゃないなって、そういう嬉しさを感じてるんだと思います、たぶん。

あと、そう、「やっぱりね~好きだと思った!」っていう感覚。ちゃんと相手を知れている、相手の幸福に貢献できた、そういう感覚もなかなかよいものですよね。

 

 

しかし誰かにおすすめを伝えるとなると…先ほど同様結局自分ができるのは自分の好きなものを伝えることだけなので、「今この人にはこういう理由でこれをおすすめする!」というのができないのです……。

アニメにしても音楽にしてもキャラクターにしても何をおすすめにしてもそう!自分の中で情報や要素のタグ付けが甘いというのもあるし、相手の状況をしっかり見て相手に合わせて最適なものを考えることもどうやら苦手っぽいし、どこまでも相手のことを考えられない……たまに悲しい。

この話やめますね!

 

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続けて「相手に自分自身のことを教えること」について。

ま最近こそブログで毎週自分の考えとかをちょいちょい発信していますけれども、元来すーぎのは自分のことを伝えるのが苦手な方です。コミュ障なので。

中学くらいの時はそんなことなくて、むしろ知ってることは誰よりも早く発言しなきゃ我慢できないタチでした。授業中手を挙げてから発言するということができないレベルでしたね…。

しかしたまに間違った時のバツの悪さだったり、正解してもみんなの反応がそうよくないことだったりに気づき始めてからはそういうことをしなくなって、反対に誰も答えないなってことがわかるまで黙ってからぼそっと発言するエセインテリウザ陰キャになりました。悲惨ですね。いやそんなことはどうでもいいんですよ。

 

自分の情報って誰がどこまで知りたいのか想像できないし、どこまで開示するのが普通なのかもよくわからないんですよね……。少なくともトイレに連れ立って行く高校の同級生や、飲み会で女性関係の話(オブラート)をする同僚は結構苦手でしたけど……。

 

いやー、自分を開示する程度がわからんとか言いつつこうやってぶわーーーっって自分語りをするあたり、ほんとにわかってないんだなって感じですね。ちょっと黙ってもらってもいいですか?はーい。

 

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たぶん今回いつもの倍くらい書いてるんじゃないかな……このくらいにしておきましょうね……。

 

長々とお付き合いいただいて、ありがとうございました。

そしてすみませんでした!!!!!!

 

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「だれかになにかを教えること」 お題箱より。