スペインの雨について。
草原て、いいですよね。
空の青と、草の緑と。少し白や黄色や茶色が点々としていたりする。そういった明るい色のコントラストが、普段見ている灰色だの黒だのの景色からずいぶん変わって気持ちがよいです。
『sky』というゲームにも草原というフィールドがあって、2つめのステージということもあって敵が少ない、空が広い、光の翼がたくさんあるなど、いいことずくめでお気に入りです。
ところですーぎのは東京生まれ東京育ちですので方言は人から聞くばかりです。
方言て、隠したがる人や、自然と出たり引っ込んだりする人、割といつでも出てる人、いろんなスタンスがあることを存じ上げていますが、どれもいいですよね!(?)
私は自分に方言がないので、人の方言を純粋に楽しめる立場と言えるかもしれません。自分が自分の方言に対してなにかしらの感情を持っていたら人の方言になにかしら思うところが出てきてしまうかもしれないし。
コンプレックスとか誇りとか努力とか諦めとか、そういうものに敏感になりすぎることなく純粋に萌えの対象として見られるのは東京育ちの特権かもしれません。
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昔国語の教科書に、標準語とそうでない言葉について書かれた文章があって、「標準語や丁寧語は誰にでも通じる共通言語。方言やネットスラングなどは狭い範囲だけに通じる符号という側面がある」というようなことが書かれていたとおぼろげに記憶しています。
ニュースキャスターや先生がですます調で喋ったり、親御さんが子どもを叱るときなどにあえて「いけません」などと丁寧語を使うのは、普段のコミュニケーションで使い慣れた砕けた言葉使いよりも大きく距離をとるためだとかなんとか…。
対して方言は限られたコミュニティにおいてしか伝わらないので、それが通じるということは物理的・精神的に近しい相手ということになり、親密さを感じるんだとか。
だから普段標準語で話している人が方言で同郷の人と話しているのを見るとなんだか油断しているところを脇から見ているみたいでにこにこします。(壁になりたいオタクにしかわからない感覚かもしれない。)
でもこのへんは程度が大事で、例えば言葉がほとんどわからないような土地だったり外国とかだと疎外感を感じてしまいそうな気もしますので、さじ加減はまた少し別の要素なのかもしれません。
普段隠してる方言が気を抜いたときに出て慌てたり照れたりするやつはぜひたくさんやってほしいですね。萌えるから。
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あと、ちょっと仲良くなった人に方言を教えてもらうのとか大好きです。
ニュアンスとかを教えてもらってちょっとわかった気になったり真似してみたりするの好き。ちょっと距離が近づいて仲良くなれる気がしませんか?実際はわからないですけど。なんかやりたくなっちゃう。
あ、すーぎのは方言だけでなく単純に好意を持った人の言葉使いとかすぐ移るし、真似したりもしますので、その感覚の延長ということもあるかもしれないですね。
ところですーぎのは「歩く」の連用形が「あるって」になるんですけど、これって方言ですか?
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しかしこれでいくと、普段から方言そのまんまの人に対してもなんでか好感がもてるのは、また全然別の感情ということになるんですかね…。
初手で仲間に入れてもらえたような感覚を覚えて嬉しくなっているとも解釈できるかもしれません。
あるいは自分の出自に折り合いをつけたり誇りを持ったりしている姿にかっこよさを感じているかもしれません。
それとも単純に自分と違う言葉を使う人を好奇の目で見ながらにこにこしているのかもしれません。
このあたりは方言がない人間からの感情よりも、異なる方言の人間同士で出会って会話したときの方が感情が複雑そうですよね。
片方が隠していて片方は隠していなかったり、あるいは両方隠さない同士でお友達になったり。
それぞれの方言を認識したときどんな気持ちになるんでしょうか。
非常に興味深いですがこれについて薄い本を書くには研究レベルの知識が必要ですねたぶん。学才と文才を持ち合わせた人が誰か書いてくれんかな。
近場の方言の比較ネタは『八十亀ちゃんかんさつにっき』などでよく見ますが、全く異なる方言同士の話ってあんまり見ないですね。
(花ざかりの君たちへで「捨てる」「投げる」「ほかす(ドヤ)」みたいな小ネタがあった気はしますね。)
もうストーリーは記憶にないですが、きっと少しは仲良くなってからの会話のはずだよな〜と思って勝手ににこにこしてます(根拠のない萌え)。
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また異なる方言萌えの解釈として。
すーぎのがしばしば話題に上げる「いんよう! 」のよう先輩は萌えを”欠落を愛する心”だというふうに解釈していて、考えてみればなるほどドジっ子、低身長、運動音痴など納得する例がいくつか挙げられそうな解釈ですね(ごめんなさい叩かないで)。
第90回ではその萌えの一つとして方言についても言及していて、東京育ちであるところのすーぎの的には「標準語が規範で方言がそこから外れた姿…?」という感じだったのですが、”標準語萌え”という概念がないことを考えれば、それについては言われてみればなるほど確かになぁ〜って感じでした。
例えば田舎が舞台のお話があったとして、転校生の標準語に「標準語…」「標準語だ…!」ってなって注目や注視が集まるのは想像できるので、規範というよりはその環境での標準(スタンダード)と解釈したほうがすーぎのは納得しやすいかなって思いました。
そしてヤンデル先生、わかります。
すごくわかります。
私も萌えに対する才能が0でいいです。
よう先輩は関西の方らしいですが、それらしいイントネーションを聞いた記憶がないです。彼は自分の方言について、あるいはそのイントネーションを全く隠していることについてはどういう感覚なのか、ちょっと気になりますね。自分がふとした時に関西のイントネーションを出した時にリスナーが沸く可能性に気づいているのでしょうか。
イントネーションが出ないことに関しては、コンプレックスや移住という理由よりは、それこそ研究や発表に必要な言語であるところの標準語に全く綺麗に染まっているという感じでしょうか。共通言語としての英語もかなり使うのだろうし。
こっそりふとした時に関西イントネーション出してくださいお願いします。もし私が気づいてないだけで出てたら修行不足です。ごめんなさい。萌えに対する才能が0でごめんなさい。
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はい。 そんなわけで。
みなさんは自分の方言をどう認識しているでしょうか。
あるいは誰かの話す方言をどんな気持ちで聞くでしょうか。
変えたいとかどこかの方言を真似したい逆に真似されたくないとか、思うことってありますか??
私は人の方言は基本的に好きで主に真似したいです。
「方言の魅力」お題箱より。
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マックのポテトとナゲット食べたい。