すーぎののリフィル

ちょっと長めに考えて置いておくところ。

結果的に何もなかった

 

まずはこちらをご覧ください。

 

「ある人のことを自分は好きだとして、誰かもその人を好きかもしれない。」

「ある人のことを自分は嫌いだとして、誰かもその人を嫌いかもしれない。」

 

当たり前のことのように見えます。

ではこれはどうでしょう。

 

「ある人のことを自分は好きだから、誰かもこの人のことが好きだろう」

「ある人のことを自分は嫌いだから、誰かもこの人のことが嫌いだろう」

 

①と②は似ているようですが、全く違います。

①を見た時に”当たり前”だと思った人は、自分が②の感覚を無意識に感じてはいなかったかを考えてみてください。

何が違うのかわからない人は、次に進む前にぜひ自分なりに解釈してみてください。

 

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もう一つ。

 

「ある人のことをAさんが好きだから、私もその人のことが好きだろう」

「ある人のことをAさんが嫌いだから、私もその人のことが嫌いだろう」

 

 

②と同じように『だから』で繋いでいますが、これも全く異なるものです。

 

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②,③を踏まえてもう一度①を見てみます。

 

 

「ある人のことを自分は好きだとして、誰かもその人を好きかもしれない。」

「ある人のことを自分は嫌いだとして、誰かもその人を嫌いかもしれない。」

 

これは、こう言い換えてみるとニュアンスが浮き彫りになります。

①'

「ある人のことを自分は好きだとして、誰かはその人を嫌いかもしれない。」

「ある人のことを自分は嫌いだとして、誰かはその人を好きかもしれない。」

 

改めて、極めて当たり前のことです。

文の前半と後半に関係はなく、それぞれの好き嫌いが個別に独立しているという状況。当たり前ですが、忘れがちで(、今回主眼に置いていることで)す。

友達が約100人だとして約69億9999万9900人の好き嫌いはこれに該当するわけですから、この世の真理と言って差し支えないこの世の真理だと思います。

 

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①,②,③それぞれ、文の前半と後半の関係を整理すると、

①→関係ない

②→”ある人”の性質に着目している

③→”ある人”の性質に着目していない、もしくはバイアスがかかっている

 

というイメージで書いていました。伝わっていたでしょうか。

これを共有させていただいて、次に進みます。

 

ここから①を念頭に置きつつ②と③を詳しく見ていきたいと思います。

 よろしくお願いします。

 

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※ここからは「嫌い」は省略して書いていきます。ほとんどの場合「好き」を「嫌い」と読み替えても成り立つと思います。

 

「ある人のことを自分は好きだから、誰かもこの人のことが好きだろう」

一見かなり耳触りのよい論ですが、本来は関係ないもののはずなのにどうして前半と後半に関係があるように思えるのでしょう。

 それは、本来この文の言いたいことが、「この人には、私を惹きつけ、もしかしたら他の誰かをも惹きつけてしまうほどの魅力がある」ということだからです。

好き嫌いは本題ではなく、ただ「この人(の性質)が好きだ」ということを別の言い方で言っているのです。

その人の良いところを見つけているということはきっととてもいいことです。

 

しかし、②の文を頭の中で繰り返していると、その人の魅力を疑わなくなったある日「みんなもこの人のことが好きになるはずだ、ならないのはおかしい」というニュアンスが生まれてくることがあり、非常に危険です。(いわゆる信者という現象。)

 

あくまで自身個人が「この人(の性質)が好きだ」という、エッセンスの部分を忘れないようにするのが大事です。

 

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じゃあ③は?

「ある人のことをAさんが好きだから、私もその人のことが好きだろう」

 

これは、多くの場合"その人"のことはまったくどうとも思っていません。

これが言っていることは「私はAさんのことが好き、信頼している(もしくはそんな自分でいたい)」ということであって、自らの判断基準をAさんに合わせて(ぶん投げて)、"その人"の評価を自分でしていない状況です。

(もしかしたら稀に「これまでの付き合いで好みが驚くほど合致していることがわかっていて、Aさんが好むもののほとんどが自分の好みにも合う」という状況であればそういう意味でも言える文かもしれませんが、(私の場合で言うと)好きな人の価値観を取り入れたいという気持ちを持ってしまいがちなので、区別することが難しいです。(先述の『そんな自分でいたい』という気持ちの結果ではないと言い切れないという意味(好き嫌いの難しいところ)。))

 

念のため言っておきますが、この感情がよくないことということでは決してありません。好きなアーティストの新曲を聞くときや、好きな芸能人が起用されたCMを見るときなど、経済活動の中でもほうぼうに利用されているポピュラーな気持ちの動きだと思います。

 

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ただ、自分の好きの基準を自分以外のものに一任しているときに、それを自覚していないというのは考えものです。

 

この世のすべての好き嫌いはすべて独立で、それぞれ個別にあるものですから、もしAさんがいなくなってもAさんのことが嫌いになってもAさんがそれを嫌いになっても、本来ならば自分の中の好きは残るはずです。本来ならば「Aさんをきっかけにして『自分が』好きになった」ということのはずだからです。

しかしAさんに伴って興味を失ったり嫌いになったりしたのなら、それは最後まで「Aさんのことが好きだっただけで、その人(への感情)自体はどうでもよかった」ということに他なりません。

 

それってちょっと悲しいですよね……。

洋服や煙草なら捨てればいいのかもしれませんが、人間の場合はどちらかに命ある限り関係や影響が続くものだし、縁を切るにしてもお互いに痛みを伴います。なによりもとよりその状態で付き合うのは不誠実です。(それに、自分が心から好きでない相手と付き合うのは、無自覚でも案外疲れるものです。)

 

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そうならないために③で肝要なのは、この気持ちを自覚することです。

自分の好きが、自分の個別のものなのか、そうでないのか。そうでないなら自分のものにしていくつもりなのか、しないならどう付き合っていくのか、付き合わないなら、どのタイミングで距離をおき、離れるのか。

一番いいのは自分の個別の好きにしてしまうことだと思います。自分の中に「私はこれが好きだ」と思う理由を確固として見つけられれば、それを基準にして他にも好きなものを見つけられるかもしれないし、それを繰り返していくうちに自分の基準や他の好きなものたちに自信を持てるようになるからです。

もし基準がぜんぶ自分の外にあったら、失ったときが大変です。それを基準に選んできたものはすべてパーになり、基準を持たない自分だけが残ります。失う前から無意識ではその恐怖に気づいているはずですが、身の回りを固めようとするその基準は自分ではなくて…。こうなると悪循環です。

 

あくまでAさんはきっかけ。好きなのは自分。

あくまでAさんはきっかけ。嫌いなのは自分。

これを増やしていくことです。

 

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ここであえて再び「嫌い」を並べて書いたのは、「嫌い」という感情は、人のせいにせず自分の責任で自分の内に置くことが「好き」よりも難しいからです。

(まあでも仮に誰かをきっかけにして誰かを嫌いになってしまったら、状況やそれぞれの感情によっては否応なく「人のせい」になってはしまうのですが…、その場合なら人のせいでいいかと言えばそういうことでもないです(否応なく人のせいになってしまうときにこそ自分で持つことを忘れがちです。大事(後述)。))

 

難しいっていうかそもそもなんのために自分の中に置くのかわからないですよね。疲れるし。

 

嫌いの基準を自分の中にストックするとどんないいことがあるかという話をしましょう。

まず一番は苦手/嫌いな人とお近づきになるのを避けることができることです。わかりやすく動機づけになるのはこれだと思います。

誰しも合わない人とは距離を置いて接したいものです。波長が合う人と仲良くし、合わない人とは距離を置く、この距離感の精度を上げることは、人生の幸福度を上げることに直結します。

そしてこの精度は、距離を測るきっかけが「先入観」か「第一印象」かで驚くほど大きな違いが出ます。

曇りなき眼で見定め決める。アシタカがエボシを殺さず、サンを見つめ、タタラ場に住んで森に出向いたように…それが生きることです。(は?)

 

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次に、わかりづらいけれど、でもとっても大事ないいことは、自分の発言に責任を持てるようになり、周りの人にもそれが伝わることです。

「嫌い」という気持ちは、持つこと自体がストレスな嫌なものです。それを発露させるにも後ろめたさを感じるものです。だからその気持ちを持ち、発露するとき、その責任を自分以外の何かに押し付けてしまいがちです。

有名なのは「お前が悪いんだ」とか「不快に思う人だっているんですよ」あたりでしょうか。

どちらも『自分自身が「嫌」という気持ちを持っている』ということからストレスを逃がすために人形を立てていることに変わりありません。

 

この状態を脱却して自分の気持ちだと自覚して持つといいことがあります。それは、自分の気持ちと折り合いをつける場所を探すことができるようになるということです。

子供の頃は泣けば嫌なことのほとんどは解決します。

思春期の頃は怒って攻撃すれば(解決はせずとも)周りが道を開けてくれます。

それより先に進むには「泣く/攻撃する以外の手段で自分で解決する」ことになるんですが、私がよく見るのは「泣く/攻撃で突き進む」「我慢する」「折り合いをつける」ですかね。

 

「泣く/攻撃で突き進む(進んでない)」「我慢する(解決してない)」「折り合いをつける」。…実質一択なんですよね、世界。

 

この一択をとるのが、なかなかどうして難しいのです。

この一択をとれている人が、もちろんのこと、かっこいいのです。

 

この一択をとれている人――自分の考えと世界(環境や周りの人)を照らし合わせて最善/次善の策を模索している人というのは、好き嫌いに限らず様々な場面においてそれをやってのけています。

できない人は、「嫌い」に限らず様々な場面に置いてできません。

※もちろん恋愛においてのみ脳がバグる人とかもいます。「嫌い」という感情だけ制御できない可能性もあるし、親子関係だけダメとか。(そこまで局所的なものは強迫観念やトラウマ的な要素もありそうですが。)

言いたいのは、例外はあれど生き様に通底していることが多いということです。

 

「最高な毎日ではないけれど毎日面白いことを探してはなんとかやってるよ」って本心から言える人、かっこよくないですか?

「出会いは最悪だったけど深く接したら案外いいやつで今は親友だ」だとか。

これがかっこよく感じるのはきっと、泣くでも投げ出すでもなく、前向きな時間を長いこと過ごしたのだということが、なんとなく伝わるからです。

私もそうありたいものです。

 

そのためには、③を探して自覚して、②をたくさん見つけてストックして、①を意識して強化して、そうして自分に自信を持ってあげて、自分の基準に自信を持ってあげて、それを以てして世界を見て、自分のよき居場所を探して。

 

んんんん~~~~!!!!