すーぎののリフィル

ちょっと長めに考えて置いておくところ。

Re: 結果的に何もなかった

蛇足。

嫌な気持ちを発露することについてもう少しだけ。

嫌な刺激があったら嫌な気持ちを持つこと自体は当たり前のことで、悪いことではないと思います。

ただ、嫌な気持ちを感じたら感じただけ表に出すのは赤ちゃんであり、年齢を重ねるごとに良しとされないものになってきます。

そこで多くの人は、むやみに自分の持つ嫌な気持ちを発露することを悪とし、むやみに嫌な気持ちを発露すること自体に嫌な気持ちを持ち、それをしている人を見ることにも嫌な気持ちをもつことになります。

しかしそうなると自分が一度持った気持ちをどうするのか。みな様々模索し、なるべく表に出さないように努力をすることになります。

 

不快になるような誰かの行動を目にした場合を考えてみましょう。どんなふうに表に出し、表に出さないでしょうか。

 

ほぼダイレクトに本人に攻撃的な言葉や態度を取る人もいるかもしれません。諭すふりをして攻撃したり晒したりする人も見受けられます。その場では何も言わず、具体的な名指しを避けて苦言を呈する人もいるかもしれません。その人を快く思っていない人に愚痴ることもあるかもしれないし、全く関係ない人に話を聞いてもらうこともあるでしょう。あるいは角の立たないように働きかけて変わってくれるか試す人もいるでしょう。それは一対一でするのかもしれないし、仲間を探してするかもしれません。すべてを諦め目と耳をふさぎ、口をつぐんで生きる人もいるのかもしれません。諦めるは諦めるでも、反面教師として距離をおき、自分はそうなるまいと決意する人もいるはずです。あるいはその人の事情を妄想して原因を「世界」に転嫁する人もいるかもしれません。

 

嫌な気持ちを発露する方法、タイミング、場所、程度。組み合わせは様々あり、どれが正解というものでもありません。しかしどの組み合わせを選んだとしても、嫌な気持ちを感じてから発露するまでのタイムラグは必ずあり、気持ちの大きさと発露の大きさにも差が生じます。必ずです。

 

自分の気持ちを抑圧しながら生きる上で、誰しもどこかでそれを発散する機会(=自らに許可を出すポイント)を探しています。例えば

明確に自分に向けて攻撃された(傷つけられた)と感じた場合

自分の大切なものを攻撃した(傷つけた)と感じた場合

自分の感じた嫌な気持ちと同じかそれ以下だけの攻撃をする場合

身の周りの多くの人がその人を攻撃していると感じた場合

自分と自分から見える範囲の人間に全く関係ない存在であると感じた場合

法律違反など、明らかに相手に非があると判明している場合

自分より立場が弱いと認識している場合

自分の言葉が相手に影響を及ぼさないと考えている場合

相手が気づくことのない場所にのみ発散する場合

周りに自分以外誰一人いない場合

自分以外の誰かが自分と同じ感情を発露していると確認することで自分の発散とする場合

抑圧し続け蓄積していた感情が制御できなくなった場合(これは自分の意思で許可しているわけではないですが。)

攻撃の要素をなくしニュートラルな意見として発信する場合

角が立たない発露の方法(言い方)をとる場合

周りに発露と気づかせない言い方(冗談めかすなど)をとる場合

 

思いつくもの思いつかないものをばーっと挙げてみました。

もちろんこれ以外にもまだまだあると思います。場面ごと、人間関係ごと。無限にあります。

人によって場面によって、理解できるものできないもの、納得できるものできないもの、基準がぶれているように感じるもの、意味を見いだせないもの、様々あると思います。ここではあえていい悪いの話はしません。

 

 

 

意識してか意識せずか、「自分に攻撃を許可する場面(あるいは場面ごとの閾値)」というのは人それぞれある程度明確に持っていると思います。”一切許さない”も含めて。

 

たとえばうちの親なんかはわざわざ政治の番組を見ては与党や知事の言葉について「適当なことばかり言いやがって」「そんなことよりやることがあるだろ」「難しい言葉を使ってる。煙に巻こうとしてるな」などと独り言を言っていますが、それも街頭に出向いて本人になにがしか叫んだり仲間を引き連れてマイクで喋ったりしていないだけマシなのかもしれません。

(私や兄など、顔を合わせて不満を言える人への不満をなるべく許可せず抑圧している代わりなのかもしれないし……)

(ちなみに兄は親に小言を言われると瞬時に明確に不機嫌な顔、不機嫌な声をして威嚇をしますが、それでも不都合な話が続くと机などを叩いて大きな音を出し、その後自室に戻りなにかをドタバタやって発散している音を出してから戻ってきます。赤ちゃんです。)

 

 

ところでわざわざ嫌な気分になるとわかっているものを見に行って文句を言う行為は、一種の依存らしいです。

頑張って何かをしても望む結果が得られないことが多い世の中、「政治の番組を見る」だけで「必ず嫌なやつがいて好きなだけ文句が言える」というのは、非常に気持ちがいいことなんだそうです。

 

いわゆるアンチの人たちも、普段うまく行かないことが多いんでしょうね。かわいそうに(これは嫌味です)。

 

私の感覚でいうと悪い感情を持つことは悪いことではないと思いますが、悪い感情を持たないことに越したことはないとも思うので、「自分が嫌な気持ちになりそうなものは避ける」ことは当たり前なものとして認識しているので、こういった気持ちはよくわからないのですが、そういう人がいることは認識しています。

ちなみに私はそういう人を見ると嫌な気持ちになるので、目に入ったらリムるかミュートするかブロックするかします。そういう人がいること自体は諦めており、きりがないのでのでわざわざ態度の変化を求めて働きかけたりはしません(親に対しては「私が同じ部屋でご飯を食べてる間は我慢してもらっていい?」とかは言います)。

あ、「アンチは悪いことだから見かけたら攻撃してもいいことにしよう」みたいなことは考えません。どうせ関わっただけ嫌な気持ちになるし、嫌な気持ちと攻撃対象を自分から得に行く行為に意味を感じないので。

(具体的に存在していないアンチの概念に嫌味を言ったりはする(?))

 

みんな様々嫌な気持ちを持ち、嫌な気持ちを発散しています。

見ていて嫌な発露の仕方、自分が許せる発露の仕方、迷惑のかからないうまい発露の仕方、様々あると思います。全人類が見つけられたらいいのにね、みたいな話でした。

 

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そういえば私は「アンガーマネジメント」というやつは全く触れていないのですがこの話題でさすがに外すわけにはいかないかと思って今30秒くらい調べたところ、「怒りは落胆/不安の裏返しであり、怒りを覚えたということは背景に問題解決の余地が隠れているからそれを見つけてそちらに意識を向けましょう」ということらしいです。ふむ。怒りを怒りとして衝動的に発露してしまう人にとっては必要な視点なのかもしれません。

 

今この文を書いている感覚で怒りを解釈すると「”嫌な気持ちを持つこと自体への嫌な気持ち”が沸騰している状態」に感じます。この嫌な気持ちとは、誰かの攻撃的な言葉や部下の失敗に限らず、悲しい気持ちや嫉妬なども含みます。

それでいくと、私から言わせれば「嫌な気持ちを持つことは当たり前のことで仕方のないことなのだからそのこと自体に嫌な気持ちを持つのは見当違いだ」ということになります(矛盾)。

 

アンガーマネジメントの視点により『背景さえ解決できれば自分のこの「嫌な気持ち」は本来ないべきもののはずだ』という前提にたって嫌な気持ちを感じた背景を探すのは危険です。それは自分の気持ちを否定する材料を探していることに他ならないからです。それを見つけてしまうことは「やはり自分が持った嫌な気持ちは間違いだったのだ」と確認することに他ならないからです。

それは自分の怒りを正当なものだと思っている(そして本当はそうではないのかもと不安を抱き始めた)ブチ尖った人が角を丸めるためには必要なのかもしれませんが、そうでないなら自分の気持ちを否定し続ける危険な行為です。

 

必要なのは、自分が嫌な気持ちを持っていることを認めた上で、その「嫌な気持ち」の具体的な中身を認識して、『”今目の前この気持ちのまま”ではない発散の仕方をしたい』という気持ち、あるいは『これを減らしたい』という気持ち、そして『この気持ちから開放されたい』という動機で、そのためにとれる方策を探すことです。

 

似ているようで、全然違います。

 

おまけ程度の軽い気持ちでアンガーマネジメント調べたらクソ危険なこと書いてあって大真面目に反論する羽目になってしまいました。ふざけやがって。

もう一度言います。

嫌な気持ちを持つことは、当たり前で、それ自体は悪いことでなく、また避けられることでもありません。

大切なのは、気持ちを否定する方法でも発露させない方法でもなく、自らの納得のいく発露をする方策です。