すーぎののリフィル

ちょっと長めに考えて置いておくところ。

私は小鳥ですか鈴ですか

私はどんな人なんだろう。

最近よく話す人はたくさんいるけれど、みんな「紹介するときに最初に『こんな人だよ』って一言だけ挙げるとしたら…」っていうワードがあると思うんですよね。

思慮深い人、面白い人、声がかわいい人、笑い方がうるさい人、いっつも「でも」とか「いや」から入る人、変な人、若いなって思う人、オトナだなって思う人、よくわからないひと、自分と違うなということがわかっている人、卑屈な人、爽やかな人、何か言いたそうにしてる人、一言多い人、適当なことしか言わない人…あ、これ具体的に誰かを思い浮かべて挙げてるわけじゃなくて「〇〇な人」っていうフレーズを思いついただけ挙げてるだけなので、これ私かな…とか思わないでくださいね。あでも適当なことしか言わない人はあおぱんです。

 

 

自分はどんな人として振る舞っているつもりなのか、

その結果(あるいはそれと裏腹に)どんな人として見られていると思うのか、

どんな人間として見られたいのか、

どんな人間になっていきたいのか、

そういうこと、あんまり考えたことない気がしてるんです、私。

 

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…いや嘘かも。

なるべく「優しい人」でいたいとは思っている。

「軋轢を好まない人」とか。

自分はもちろん相手もなるべく楽しいほうがいいと信じているし、楽しい方向が一緒なら一緒に楽しみたいと思う。

仮に別々の方向を向いているなら、ぶつかるように動くんでなくてそれぞれの方向に離れるように進めばいいだけだと思うし、

そういうふうに、一緒にじゃなくても、それぞれが穏やかに楽しくなったらいいなと思っている、はず。

譲れないものや理解できないことがあったら、そこはよけて歩くようにして、相手にもよけてもらえるように働きかけたりする。

そのために言う言葉もあるし、言わない言葉もあるし、言う言葉は言い方を考えたりするし、言い方を考えてるうちに言うタイミングを逃したりするし、考えないで思ったことを言ってしまったりする。考えないで言ってしまうときはけっこう頻繁にあって、後悔したり、意図をあとから説明したり、説明できずにそのままになってしまったりもする。

自分の発言で空気を悪くしてしまったり、もっと悪いときなら言い方が悪かったことに気づけないでいたりすることもたくさんあると思うし、実際後から「そんなふうに伝わってたの!?」って判明することもたくさんある。

 

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以上が振る舞っているつもり(と現状)だとして、

周りからはどう見えてるんだろう。

こんなふうに思っているのは伝わっていたんだろうか。(バレていたんだろうか、とも言える)

 

そうはいっても自分は自分の理想をしっかりと持っているわけではなくって、(上記の理想(?)も全部語り口が「なったらいいなぁ」くらいのものだからわかると思うけれど)自分の行動が理想と乖離していることに大きくストレスや罪悪感を覚えたりはしていないと思うのだけれど、それでも仮に大きく乖離して認識されているとしたら、それはいやだなぁと思う。

 

たとえば、「優しい人間のつもりでいる」は絶対いやだ。

「優しい人間であろうとしている」は、まぁ悪くない。

「優しい人間風だけどその割に角を立てがち」…これは実際思われてそうでこわいな。

 

でも「どんなふうに見られてるのか」を、自分の希望や期待を除いたうえで、みんなの反応から推測したり確認したりするのって、難しいんですよね…。

 

きっとこういうのは高校生とか大学生とか、たくさんの人と日々会って日々話してを繰り返す時分のうちに、アンテナを張る練習をしたり、アンテナに引っかかった情報を取捨選択する練習をしたりするんだと思うのだけれど、

私は中学生までADHD気味で周りを全く見ずに過ごしてきて、高校大学では(行動は落ち着いたけれど)周りと自分が違うことに無頓着のまま、自分が浮いていることには気づきつつもそれに対して別になんとも思わないような生き方をしていて、自分がどういう人間かを考える練習、どう見えているかを考える練習をまったくしてこなかったのです。

 

(これは若い人たちへ余計なことと承知で言うのだけれど、

周りと違うことは当たり前のことであって、みんなと同じじゃなくたって全然いいのだけれど、違うということ自体に無頓着になっちゃいけませんよ。

どこがみんなと違うのか、どこを大事にしたいのか、どこを一緒にしたいのか、しっかり考えていったほうがいいと思います。余計なことおしまい)

 

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『自分がどう見えているのか』、考えだしたらきりがないから考えないようにしてるとこもあるんだよな。

自分が振る舞い方をどんなに意識してようと、その意識の外で発言してしまうことはあるだろうし、曲がって伝わってしまうこともあるだろうし、もしかしたらぜんぜん伝わってないかもしれない。そもそもトンチンカンな一人相撲の努力ということもあるだろう。

自分の行動は一貫しているわけではなくて、それらを観測する人も無数にいて、それぞれ観測するタイミング(文脈)だって無限にある以上、可能性で言ったらどんな人間と認識されてたっておかしくはないのだから。

 

それでも理想をできる限りしっかりと設定して、できるかぎりそれに沿うように行動をして一貫性を高めていくことで、理想に近い自分が観測される割合が少しずつ増えていく……のでしょうか。気が遠くなるな。実際にやる前からきりがないなって思っちゃう。

きりがなくてもやるんだよって人がほとんどなのかなぁ。きりがなくてもやるしかないんだよという人もいるだろうなあ。

 

そういう人からしたら信じられない生き方なのかもしれない。理想を(やんわりとしか)持たずにどんなふうに生きたいかよく考えないままに生きているというのは。

掴まるところも根っこもないひどく頼りない不安定な生き方に見えるんだろうか。

そうでもないよ。楽だよ。直視しない限りは。

 

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最近ジョハリの窓という概念を久方ぶりに思い出す機会がありまして一瞬思いを巡らせたんですが、

生まれてからこれまで人に言ってないことなんて山ほどあるし、なんなら自分自身忘れて闇に消えた(でも人間性の構築には一役買っているような)ことがらだってたくさんあるだろうし、人には言ったけれど自分自身が覚えてないなんてことも山ほどあるだろうなぁ…などと考えると、人が見ている自分というのはなんて断片的な部分なのだろう、と思うわけです。

そして、自分が見ている自分というのはなんて断片的な部分なのだろう、と思うわけです。

 

でも人によってはそんなことないんだろうなぁとも思う。

私の周りのかっこいい人たちは、自分がどう見られたいかを設定していて、どう見られているはずなのかを推測して、そうやって自分をマネジメントしている。そういう人が何人もいる。

まぁそれもとてつもない努力と日々の意識の賜物なのだろうとも思う。

みんながみんなできているとはさすがに思わん。それやるのが当たり前の世界じゃさすがに生きていけない。

 

どんな感じなのだろう。見せる自分と見せない自分と、見えている自分と伝わっていない自分を、自覚したり設定したりして、アンテナに入ってくる情報とすり合わせて、日々修正してそれに沿って生きていくというのは。

私の周りだと大吟醸、ななさま、いままやさん、カタルシスワタリ、香蘭ちゃん、あと誰ができてそうかなぁ…

アイドルとか、あと真面目にVの者をやってる人たちとかは日々考えている人が大半なのかな。「本人」ではない「見せている範囲での偶像」を商売にしている人たち。作品の中における俳優や声優もそうか。

 

…え、けっこうやってる人いるくない?生きていけないかもしれない。

 

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人から言われた評価というものは悪いものばっかり印象に残って、喜ばしいものは「またまたぁ〜」とか「そんなことないよ」とか言ってしまいがちだけれど、ちゃんとまっすぐ受け取らないとね。

アンテナに引っかかるどころじゃなく、せっかく直接どう見えているかを教えてくれているのだから。

たまにはよくない面も教えてね。たまにね。頻繁だとへこむからね。小出しにね。頼むよ。

 

いつもありがとうございます。

 

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珍しくメタ的なこと(「思ったこと」ではなく「どう考えているかみたいなこと」(?))を書いた気がする。疲れた。

でもずっとおんなじことしか言ってない気もする。わからん。